東日本大震災から2年が経ちました。
あの日、僕は日比谷線に乗っていました。
電車が小伝馬町の手前、駅と駅の間で急停車。
車内には地震の信号をキャッチしたため停車したと放送が流れ、その直後に鈍く大きな揺れが電車を襲いました。
地下であったため、それほどひどい地震という実感はなく、みんな落ち着いた様子でしたが、携帯の電波が届かないため、情報がなく、みんな静かに座っていました。
しばらくして携帯の電波がわずかに入り、ニュースに「仙台で7mの津波」という文字が目に入ってきました。
思わずそれを僕はつぶやいたのですが、そこで車内が初めてざわめき始めました。
しばらくして電車は動きだし、次の小伝馬町で乗客を降ろしたら運休になるとアナウンスがあり、全員小伝馬町で降りました。
何もなかったかのように地上へ向かい歩き出す人の群れ。
僕もその中に混ざって地上へ出ました。
そこはビルから逃げ出した人々が道路を埋め尽くし、車も走っていない状態という信じがたい光景でした。
町自体はいつもと変わらない光景。
でも避難した群衆から、どれだけ大きな地震だったかは感じ取ることができました。
会社までは歩いて5分。
人混みを分けながら急ぎ足で会社の前まで戻ると、支店長がそこに立っていました。
支店長もちょうど会社に戻りエレベーターに乗って上昇中に地震が発生、エレベーターが緊急停止したため上まで行けず、空きテナントである途中階でドアが開いたのでそこのベランダから緊急脱出用はしごで下まで下りてきていました。
会社にいた人たちが心配なので、とりあえず非常階段を10階まで上りました。
普段締まっている非常ドアは鍵が開いていました。
そこを開けると、社内は信じがたい状態になっていたのです。
ビルの最上階のため揺れが激しく、鉄のキャビネットはすべて倒れ、コピー機は移動し、ガラスも割れていました。
とにかく誰か下敷きになっていないかキャビネットの下などを調べ、誰もいなかったためどこかに避難したんだということがわかった時はホッとしました。
携帯はまったく通じない。
PCは動いていたため情報を集めようと開いたら、PCのメールに、「近くの避難広場にいる」とメールが入っていました。
ちょうどそのとき、携帯のテレビから仙台の海岸線を巨大な津波がのみ込んでいく様子が映し出されたのです。
震災からしばらく経った春、僕らは仲間と石巻へ向かいました。
被災地の支援と、障がい者の施設慰問の旅。
そしてあの惨状を目にすることになります。
あれから2年経ちました。
被災地へは結局1度しか行くことができず、今は少しずつ貯まったお金を被災地へ向けて募金することくらいしかできません。
原発事故でふるさとを失った人もいます。
復興はまだまだです。
東北が1日でも早く復興を遂げ、みんなの笑顔が戻るまで、支援は続けたいと思います。
だから希望を捨てず、共に前を向いて歩きましょう。上を向いて歩きましょう。
僕も必ずまた行きます。
1日も早い復興を願って
今日という日が、未来への希望の新たな節目となることを願って。
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