2012年1月11日水曜日

成人の日に―尾崎豊を知っているか


先日、尾崎豊について書きましたが、朝日新聞の社説にこんなのがありました。

成人の日に―尾崎豊を知っているか
 ああ、またオヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。
 キミが生まれた20年前、ロック歌手・尾崎豊が死んだ。その時のオヤジより少し下の26歳。雨中の追悼式に、4万人が長い長い列を作ったものだ。
 新聞には「高校を中退し、自由を求めて外に飛び出した彼の反骨精神が、僕を常に奮い立たせていた」と投書が載った。
 彼が「卒業」「15の夜」といった曲で歌ったのは、大人や社会への反発、不信、抵抗。恵まれていないわけじゃないのに、「ここではない、どこか」を探し、ぶつかり、傷つく。
 その心象が、若者の共感を呼んだ。尾崎の歌は高校の教科書にも採用されたほどだ。
 ところが最近は、うんざり顔をされることが多いらしい。
 オヤジと同世代、精神科医の香山リカさんは毎年、大学の授業で尾崎豊を聴かせ、感想を問うてきた。ここ数年「自己中心的なだけじゃないか」「何が不満かわからない」と、批判的な意見が増えているという。
 教室に居並ぶのは、親や世の中に従順な若者たち。キミと同い年なら、石川遼くん?
 でも、就活の道は険しいし、滑り落ちたら、はい上がるのは難しい。時代は、尾崎のころよりずっとずっと生きづらい。
 だけどキミたちは「自分にスキルが欠けるから」と、どこまでも謙虚だ。格差も貧困も「自己責任さ」と、受け入れてしまっているようにみえる。
 尾崎豊はどこへ行ったのか。
 あの時の尾崎と同じ26歳、気鋭の社会学者、古市憲寿さんには「オヤジよ、放っておいて」と言われそうだ。
 近著「絶望の国の幸福な若者たち」では、20代の7割が現在の生活に満足している、との調査結果を紹介している。過去40年で最高だ。
 将来の希望が見えないなか、未来を探すより、親しい仲間と「いま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まっているという。
 なるほどね。いくら「若者よもっと怒れ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。
 でも、言わせてもらう。
 私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。
 だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。
 ともあれ、おめでとう。
読んで「う~ん・・」と唸りました。
確かに今の若者は怒りをあらわにしない。
いつも穏やかというか、笑っているというか、平和な感じがします。
僕はいわゆる「積み木崩し」世代。尾崎もそうです。
「スクールウォーズ」の世代です。
ラグビーの名門、大阪伏見高校はまだまだ荒れてた時代です。

当事者世代から言わせてもらうと、学校への反発、社会への反発は、単におもしろがってやってたわけではありません。
当時は教師の情熱が失われ、生徒は横並びがよしとされた時代。
それぞれの個性はあまり大事にされなかった(自分はそう思っています)時代でした。
没個性を嫌った思春期たちは、リーゼントにしてみたり、パーマかけてみたり、学ランを長くしたり短くしたり、ギターを背負ってみたり、スカートを長くしてみたりいろんなことをして自己主張していました。
「それだったら今の若者だって髪の毛長くしてたりシャツをズボンから出したりミニスカートにしたりしてるじゃないか」と言われそうですが、外見だけで言うなら、今の若者はみんなベクトルが同じです。
没個性を嫌ってると言いながらもみんな同じ格好をして、結局横並びになって満足しているように思えます。
言い換えれば僕らの世代は「没個性から脱したい」とそれぞれがいろんな格好をしていたのに対し、現代の若者は「標準から外れることで安心している」ように思えます。
それも社会的な反抗からでなく、単純に「標準は嫌だ」という理由だけのように思えるのです。

「理由なき反抗」はありません。
反抗には必ず理由があります。
どうして今の若者から社会への不満がこぼれてこないのか不思議です。
40歳過ぎた今でも僕は社会に不満はあるのに。
いつの時代もムーブメントやデモクラシーを興してきたのは若者なのに。
「夜の校舎窓ガラス壊してまわれ」とは言いませんが、シュプレヒコールを起こすくらいの目を持って欲しいと思います。

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